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大阪地方裁判所 昭和29年(レ)24号 判決

控訴人 西口惣治郎

右代理人 益野豊

被控訴人 中川熊蔵

右代理人 福岡彰郎

主文

本件控訴は之を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

当裁判所が本件に付昭和二十九年五月十四日にした強制執行停止決定は之を取消す。

前項に限り仮に執行することができる。

理由

控訴人が昭和二十八年五月十六日訴外東雲鋼業株式会社に対する硬鋼線の買受代金支払のため額面金四十六万六千九百円、満期日昭和二十八年八月十五日、支払地貝塚市、支払場所株式会社大和銀行貝塚支店、振出地泉佐野市と定め、受取人欄を白地とした約束手形一通を振出し、同訴外会社に交付すると共に白地の補充権を附与したこと、被控訴人が同年八月二十六日本件手形債権を有するものとして該債権保全のため、大阪地方裁判所に対し控訴人を債務者として動産仮差押申請をなし、同裁判所昭和二十八年(ヨ)第二三六九号事件として仮差押命令を得て同月二十八日控訴人所有の動産に対する仮差押執行をしたので、控訴人は同年九月五日被控訴人を相手方として布施簡易裁判所に対し右手形金支払猶予の調停申立をなし、同庁昭和二十八年(メ)第二八号事件として繋属し、同年十月二十二日控訴人、被控訴人間に、(一)申立人(控訴人以下同じ)は相手方(被控訴人以下同じ)に対し金四十六万六千九百円の手形債務を負担することを認める。(二)右債務の支払方法は申立人は相手方に対し昭和二十八年十一月以降毎月末日迄に金五万円宛を持参又は送金して分割支払をなす、但し昭和二十九年一月以降の分割支払分は翌月五日迄に支払を履行する。(三)申立人が前項の分割支払の内昭和二十八年十一月分及び同月十二月分の履行をしたときは、相手方は申立人に対し仮差押に係る動産の内家財道具の部分に付仮差押の一部を解除し次で同二十九年一月分及び二月分の履行をしたときは仮差押物件中機械類の部分に対し仮差押解除の申請手続をなす、(四)申立人が前二項記載の分割支払を二回以上怠つたときは分割払の利益を失い残債務金額に付相手方の請求あり次第直に之が支払をなす、(五)調停費用は各自弁とする旨の調停が成立するに至つたことは何れも当事者間に争がない。ところで本件手形に受取人及裏書人として記載せられてゐる谷口信一なる者は実在しない架空人であり、右は被控訴人に於て擅に右谷口信一なる虚無人名義を使用し、本件手形の白地受取人欄を補充し、且つ自己を被裏書人とする右谷口信一名義の裏書の記載をなしたものであるから、結局被控訴人は本件手形上の正当なる権利者となるを得ないものであるところ、控訴人は前記調停成立の後に至り右事実を知得したのであるから、被控訴人を真正の手形権利者と誤信して之を相手方として成立した右調停調書はその内容たる当事者間の実体的法律関係設定の合意が錯誤により無効であるに因り債務名義たるの効力を有しないと主張するので按ずるに、被控訴人が訴外東雲鋼業株式会社より白地補充権と共に譲受けた本件手形に付自ら谷口信一の名称を以て白地受取人欄を補充した上、その満期日に右谷口信一名義を以て支払場所に呈示して支払を求めたが、支払を拒絶せられその後更に被控訴人自ら谷口信一の名義による中川熊蔵を被裏書人とする裏書をなしたことは当事者間に争がない。ところで私法上の法律的生活関係において使用される氏名その他の人の名称は専ら当該特定人格の同一性表示の手段としての意義を有するものであり、且その同一性認識の機能を果すことが氏名その他の名称の唯一の存在目的であることは明であり、而して又悪意に出でずして特定人格の同一性認識の手段たる機能を果し得る限り必ずしも常に一人格に付単一の名称を用うることを要せず、二以上の氏名、名称(例えば商号)を使用することを禁ずる理由もなく、その現に使用する名称が必ず戸籍簿上の氏名と同一又は是と類似することを要するものとなすべき理由もないと解せられるのであつて、従つて被控訴人が自ら本件手形の受取人及裏書人として谷受信一の名称を記載した場合右谷口信一という氏名が被控訴人の戸籍簿上の氏名と異なるからとて直ちに之を以て被控訴人が虚無人名義を冒用したものであつて、被控訴人はこれに依り何等本件手形関係の主体となり得ないものと速断することを得ない。一体特定の人が生活関係上戸籍簿上の氏名と異なる名称を使用した場合その名称においてなされた行為の効果を享け得るや否は、その使用が当該特定人の意思に基き同人を表示するためなされたか否の主観的な事情と、外部よりその使用に係る名称が当該特定人を表示するものと認識せられるに足る客観的事情との両者が存するや否に依て決せられるものと解せられる。そこで本件に付観るに、本件手形の受取人及裏書人として記載せられた谷口信一なる名称が被控訴人本人の意思に基き自己の別名として記載せられたものであること前記の如くであり、加之成立に争ない甲第六号証及原審証人山口完の証言に依り真正に成立したものと認められる乙第一号証並右証言及当審における被控訴本人訊問の結果を綜合すれば、被控訴人は鉄線製造業を営み、その営業のため株式会社大和銀行鶴橋支店及枚岡信用金庫と当座取引を有し、殊に枚岡信用金庫には昭和二十六年四月十七日以来引続き谷口信一名義の普通預金口座を設け同金庫も本より右谷口信一なる名義が被控訴人の別名であつて右取引の相手方は被控訴人であることは熟知するところであり、又他の銀行取引においても被控訴人はその別名として谷口信一なる名称を使用してゐるのであつて、本件手形に付ても被控訴人が前記信用金庫をしてその取立をなさしめんと考えたため便宜上同金庫との取引口座名たる谷口信一なる名称に於て白地受取人欄を補充したものであることが認められるのであつて、右認定の事実に徴すれば被控訴人は本件手形の白地受取人欄を前記谷口信一なる名称を以て補充するにより有効に手形上の権利を取得したものと解するに何等支障なく、控訴人主張の様に単なる架空の虚無人の氏名の冒用と同視しこれに依り被控訴人が何等手形上の権利を取得したものでないとなすことを得ない。而して被控訴人が谷口信一の名義に於て本件手形受取人となつた上、中川熊蔵を被裏書人として裏書をしたことは前記の通りであるから形式上裏書の連続に於ても何等欠くるところなく被控訴人の権利には何等の消長を来すものでないことが明である。然らば控訴人が被控訴人を以て本件手形に付その権利者と認め之を相手方として申立をなし、仍て成立した右手形支払に関する調停に関し、控訴人には何等の錯誤も有しないものと認められるから、爾余の争点に付判断する迄もなく控訴人の本訴請求は理由なく之を棄却した原審判決は正当であつて、本件控訴はその理由なきこと明であるから民事訴訟法第三百八十四条、第九十五条、第八十九条、第五百四十八条を適用して主文の通り判決する。

(裁判長裁判官 藤城虎雄 裁判官 日野達蔵 角敬)

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